旭山動物園成功の本当の訳
私がこちらに移り住んで来た1988年、首都圏ではバブルが崩壊して景気が下り坂に向かう時であった。しかしながら北海道に於いて、景気が下り坂に向かうのは何故かそれから2~3年後であった様に記憶している。
こちらに来た当初は色々なものが珍しく、冬はウインタースポーツに夏は釣りにと余暇を満喫していた。また、仕事でもある授業も面白い内容のものが多く。冬場の氷造形作品制作を始め夏にスケッチをしながらの登山等もあった。
私としても描写や造形の授業時間にありきたりの課題を出すのではなく、何か特色のある授業にしたいと思い、こちらに来た当初より旭山動物園にて描写やスケッチをする授業を取り入れていた。
当時の旭山動物園は大型遊具を入れたことと、首都圏でのバブル崩壊の影響が遅れたこともあり、ある程度の入園者はあった様に感じている。とは言っても現在の1/5程度の入園者であっただろうか。
また、飼育員だったあべ弘士さんにも時間的に余裕があったのか、私達が授業で描写やスケッチ等をしている合い間に動物の生態についての説明等をして下さる、長閑な状況だった。
旭山動物園が開園当初以来の入園者数のピークを迎えたのが大型遊具等を最終的に導入した1983年の59万人でその後のピークが1991年の46万人であった。大学に於いても、旭川校舎の受験生数がピークを迎えたのが1991年だった。
この1991年が北海道にとっても旭川にとっても、旅行者のピークだったのではなかったかと考えている。それはスキー等のウインタースポーツ施設が充実され、ゴンドラリフト等が新設完備された頃でもあり、当時はリフト待ちの時間が旭川近郊のゲレンデでも生じるほどだった。
その後、動物園も大学も入園者・入学者が下降傾向にあった。
特に動物園に於いて、エキノコックスの問題があった1994年~1996年に関しては28万人~26万人まで落ち込んでしまった。
旭川市議会でもそのことが問題となり閉園させるべきだ等の意見が多くを占めていた。
当時動物園に於いて、特別に市役所の職員の中で優秀な方々を集めてた訳ではなかったが、職員の多くは手弁当で残業手当も出ない状況下、来園者が楽しめる工夫やメンテナンスをしていたようだ。
そのような時、前菅原功一市長が誕生したことになる。
つづく